縄のまっちゃん公式ブログ【旧ブログ】

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【手抜き】と【合理化】を本気で考えてたら、日が暮れた


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前回の続きで。





手抜きと合理化の違いについて、考えてみた。

この2つは対極にありそうな感じするけど、気付かないうちに混同している。

たとえば練習とか、ルーティンワークといわれるもの。

習慣的に継続してきたけど本当に必要かどうかは、ほぼ気にしていない。



自分の場合は練習時間。

普段から最低でも30分は1人で練習をするように決めている。

でもこの練習が必要な根拠を聞かれたら答えに詰まる。





練習をすることは大切だ、





なーんて思いはあるけど、これまた根拠は曖昧。

できないことを習得するために練習をするのは当然。

でも既に習得した技術を劣化させないためだけ、にこれほどの練習が必要なのだろうか。



一層わからなくなっていく。







ただ練習をしないのも、それはそれで勇気が必要で、

Showで簡単なミスでも犯そうものなら、



「いつも通り練習をしなかったから本番で失敗したんだ」

と苛まれる。

これは恐怖に近い。







しかし練習をしていれば失敗をしなかったか、これまた根拠なし。

どれだけ練習をしても失敗は起こり得る。

でもここが重要で、

【練習をしっかりやった時は、しなかった時よりも罪の意識は薄まる】

のだ。

「あれだけ練習して失敗したのだから仕方ない」っていう感じで。



つまり、失敗した時に自分を必要以上に責めないよう、

自己防衛のセーフティネットとして練習をしているのだ。





確かに練習で失敗を防ぐことはできるかもしれないが、

必要以上の練習はむしろ逆効果になる。

それは「時間を見て練習をする」「一定の技を跳ぶ」という状態。

これだけの時間を跳べば大丈夫、この技を跳んでおけば大丈夫、

そうやって不安を打ち消しているだけ。

本当に必要な練習の場合は時間なんて気にしないで跳ぶし、決めていた時間より短かったらそこで終わる。

必要とあれば何時間でもやりこむ。

集中力の差も歴然で、必要以上の練習は「ただ時間を練習してる感じ」で過ごしているだけ。

修正点や改善点を意識することもなく、ただ身体を動かして時間が過ぎるのを待つ。





合理化と手抜きの違いはここだ。





全く練習も調整もしないのは論外だけど、



ここまでが必要だってのを見極めて練習時間・量を区切れるのが「合理化」

時間だったりルーティンを優先して、これをやっておけば不安を拭えるという理由だけでこなすのが「手抜き」



「手抜き」の場合は集中力が低い状態でダラダラと続けることとなり、

これをやれば、の「これ」が独り歩きして形だけの時間つぶしと成り下がる。







もしかすると、

【練習=仕事】って置き換えても同じこと言えるんじゃないかな。



仕事をしているように見えて実は時間をつぶしているだけ。

効率を考えずに無駄に時間を浪費する。

一見すれば真面目にやっているように見えるけど、それは手抜きだ。

反対に集中して必要なだけの時間で仕事をする、これが合理化。

残った時間で休憩をしていたら白い目で見られるが、お門違いも甚だしい。





以前、友達のアーティストにも指摘されて、

「練習をするというのは足りないことを補うという意味」

「つまり自分は足りていないと周囲にアピールしている」





習慣は強力な武器になる。

でも定期的な診断があってこそ。

惰性で続ける習慣は「単なる形式」になり、時間を浪費するだけの儀式になる。

本当に効率を考えるのならば不要な習慣はいっそやめてしまった方がいい。

練習でも同じこと、必要がないと思えば削るべき。

無理に続けても時間を浪費するばかりか、貴重な体力・集中力も奪われる。







余った時間は疲労回復に当ててもいいし、

新たなの習慣を生み出すことに使ってもいい。

新たなことを始めるには、まずそれを入れるだけの余裕を生み出すことが必要だ。



ま、この時間をスマホやネットサーフィンで空費してしまえば元も子もないが、、、











今ある習慣を効率化すること、止めることが手抜きとは限らない。

むしろ悪習を継続することこそが、

結果として手抜きになっているのだ。

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